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Balance of Power,映画,編集部から(月刊ASCII 1988年7月号9) [月刊アスキー廃棄(スクラップ)]

この号にはバランス・オブ・パワーというシミュレーション・ウォーゲームが紹介されていた。34年後ロシアがウクライナに軍事侵攻という名称の戦争をしているときこの記事を見ると平和な時代だったからゲームになっていただと思う。

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どんなゲームかをみるためにスクラップする。
 (前略)
 1985年にMacintosh用として登場して以来,名作の名を不動のものとしている戦略級のコンピュータ・シミュレーション・ウォーゲーム,それがバランス・オブ・パワーである。
 バランス・オブ・パワーはそれまであったシミュレーション・ウォーゲームの概念をまるっきり覆してしまうような斬新なゲームだ。どの一点を取り上げてもそれなりに衝撃的な特徴を持っているのだが,やはり最大の特徴は“戦争をするとすべてのプレイヤーが敗者になる”というところであろう。
 現代の世界情勢を背景として,プレイヤーがアメリカとソビエトに分かれるというこのゲームでは,プレイヤーが全面的な戦闘に陥ればそれは全面核戦争を意味する。全面核戦争が起きれば、勝ちも負けもあったものではない。だから両者とも敗者になる.バランス・オブ・パワーは、まさにこの一点を取り上げただけでも十分に際立ったゲームであるといえるであろう。
34年前は米国とソ連が戦争すると全面核戦争になり人類は滅びるというものがコミックの定番であった。現在でもそれは変わっておらず、ロシアがウクライナに戦争を仕掛けても米国は手を出せないでいる。今こんなゲームを出したら炎上必死だろう。
 バランス・オブ・パワーをプレイすると,他のゲームに比べて数倍神経を使う.普通ウォーゲームと言えば自分の戦力を駆使して相手を打ち負かすことを目標とするのだが,このゲームはそんな単純な代物ではないのである.
 プレイヤーは,先ほども書いたように米ソ2国のどちらかを受け持つ超大国と呼ばれるこれら2国の最高指導者となったプレイヤーは、激動する世界情勢をにらみつつ自国の“威信”を高めるためにさまざまな外交政策を決定して行かなければならない。ゲーム全体を彩る極めつけのリアリティーがこの政策決定の過程と,これに続く“危機”の展開を異常なまでに緊迫したものとしているのである.
 自国の威信を高めるためには、世界中の国国の中で自国に都合がよい政府を援助し,邪魔になる政権を排除するという行動をとることになる.たとえばアメリカなら日本,オーストラリア,韓国,フィリピン,西ドイツ,こういった国が自国に都合がよい政権の国であり,イラン,キューバニカラグアなどが気に入らない国ということになる.
 援助したい国には、軍事援助や経済援助を行ったり、外交条約を結んだりする.反乱の兆しがあったら、兵員を供与して沈静化に協力することもある。一方都合の悪い政権に対しては、不穏分子を扇動して資金や兵員を貸したり,政治工作(CIAとかKGBという奴らの仕事)を行って,何とか新政権をたてるようにするわけだ。ただこういった過程で,プレイヤーに“戦争を行う”という選択はまったく与えられていない。あくまでも“政策の実行”という手段しかないわけである.
 で,これのどこがそれほどに緊迫したゲームとなるのかは、この後の“危機”という展開の到来を待たなければならない.
 一人ゲームの場合(バランス・オブ・パワーはこの一人ゲームを基本として考えられているようだ),対抗する国をコンピュータが受け持つのであるが,とにかくこいつがいやになるぐらいに強情で頑固なのだ。
 アメリカが自国の威信を高めようとするのと同じくらい,ソビエトも自国の威信を上げることに必死になっている。一方が行う行動は、まず間違いなく他方の不利益となる(アメリカに協力的な国というのはたいていソビエトには協力的でなく、アメリカが追い払いたいと思っている政権は,まず間違いなくソビエトにとっては大事な友人というわけだ。もっともイランのようにどちらにとっても敵などという場合もあるが).そこで,このゲームでは,他のプレイヤーの行う政策に対して“文句”をつけ、それを撤回させることができるようになっているのである.
 この“文句”とそれに伴って発生する“危機”によって、ゲームは恐ろしく複雑なものと化している(それゆえに最高に面白い)原因である。
 相手プレイヤーが、自分に非常に都合が悪い政策をとろうとしていれば(たとえばソビエトがフィリピンの反乱分子に,軍備供与を行おうとしていることを知った場合のアメリカを想像してみてほしい),プレイヤーとしては文句をつけるのが当然である.ところが相手方としてもその政策をとるからにはそれなりの必然性というものがある.そう簡単に“はいそうですか”と引き下がるわけがない、というわけで、この“文句”は突っぱねられる.ところが,いったんつけた“文句”を、断わられたからといってすぐに引っ込ませると,“文句”をつけた側のメンツがたたなくなる.で、また“抗議”を行うということになる.こういった過程が繰り返されると,超大国同士の間に緊張が高まり,最終的には全面核戦争が起きることになるわけである。
 言葉で書いてしまうとたいしたことはないように思えるかもしれないが,これが異常に“こわい
こんな怖いゲームプレイしたくない。
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こんなゲームができるような平和な時代になってほしい。


この映画TVで見た記憶がある。単なるパロディで悪ふざけをしているようにしか思えなかった。クスリとはしたけれど爆笑した記憶はない。
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 今回紹介するのは,パロディ好きのメル・ブルックス監督の新作。彼のこれまでのターゲットはヒッチコック作品(新・サイコ)だったり,聖書物(珍説世界史PART I)だったり、ホラー映画(ヤング・フランケンシュタイン)だったけれど、今回はSF大作に挑んでいる。
 題名からもわかるとおり,もとになっているのは『スターウォーズ』『スターウォーズ』のストーリー自体がよくある善玉悪玉活劇を下敷にしたものだから,そのパロディも大したストーリーではない大気を使い果たしたスペースボール星は平和を愛するドルイデア星から大気を奪いとるため,ベスパ姫誘拐を企てる。それに宇宙をさすらう一匹狼ローン・スターや,賢者ヨーグルトなどが絡むというもの。ストーリーだけをとったら,単なるC級活劇だ
 やはりお楽しみはパロディだが,それを楽しめるかどうかは、要するにその元をどれだけ知っているかにかかっている.この映画の大本は『スターウォーズ』だけれど,パロディの対象にされたのは『スターウォーズ』だけではない.『スタートレック』も出てくれば『猿の惑星』,『エイリアン』も登場する.だから,このあたりのSF物はほとんど見ているというファンでないと退屈するかもしれない.
 もちろんこの他,空気が少なくなってきた時に売り出される天然空気の缶詰の商品名が「ペリエ」ならぬ「ペリエア」といった類のギャグもかなり飛び出す.『ポリス・アカデミー』シリーズのマイケル・ウィンスローも出演していて,同じくらいばかげた振るまいをする.ネタばらしをするわけにはいかないが,そういう部分を面白いと思うかくだらないと感じるか,それでこの映画の評価も大きく左右されるだろう。
 もともとメル・ブルックスという人は,まじめな映画愛好者といった風の人で、彼が'79年に作った映画製作会社ブルックスフィルムズから生まれた作品は『女優フランシス』『エレファントマン』『ザ・フライ』など堅い作品ばかり.ところが自らが監督となると,何かのパロディのコメディばかり.好きな作品への彼なりのオマージュなのだろうが,今回は小手先のギャグが目立ち,もうひとつ切れが悪い。やはり'74年の『ヤング・フランケンシュタイン』が彼の頂点だったのだろうか.
(久保田)

B級映画だと思っていたが、「C級活劇だ」とされていた。
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懐かしかったのでスクラップした。


続いてはプライベートフィルム出身の若手映像作家の作品の紹介をスクラップする。
スターヴァージンだ。
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ビデオとLDで発売されていたようだ。全く見ていないのだが主演のエイコを演じるSOS歌劇団出身の黒木永子が微妙に可愛いのでスクラップする。
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紹介されている事例が面白かったのでスクラップする。
ネットワークの必然性
 編集部にはパソコン通信の熱心なユーザーが多く,アスキーネットをはじめ、日経MIX,PC-VAN,Compu Serveなど,多くのネットに入っている.原稿の依頼,受け取りにこれらのネットワークを利用するのは当然として,それ以外に,ネットでの情報収集や,そこで知り合った人との意見交換,情報交換などに利用しているメンバーも多い.
 そうした状況に慣れてくると,ふと気になることが出てくる.それは、外部の人には電子メールで連絡出来るのに,隣の席の人には手軽にそれが出来ないということだ.
 この一番簡単な解決策に,隣の人にもパソコン通信でメールを送るという方法がある.
 僕の知合いの中に夫婦そろって別々にPCSのIDを持つという熱心なネットワーカーがいるが,彼らは、口では言いにくいことや,仕事の都合で行き違いになったときの連絡には,パソコン通信を利用しているそうだ家で毎日顔を合わせているのだから,何もわざわざ電話をかけてメールのやり取りをすることもないと思うのだが,電子メールというメディアに慣れてしまった彼らにとって、極めて自然な振舞いであるという.また,この話にはおまけが付いていて,夫婦喧嘩をして怒りのメールを相方に送ったつもりが,誤って全く知らない人に送ってしまったことがあるのだそうだ。もちろん,後からあわてて謝りのメールを送ったのは言うまでもない.
 ところで,実際にオフィスの中での連絡に外部のパソコン通信を利用するのは,何かと効率が悪そうである.また,数台のパソコンを直接繋ぐことで,電子メール以外のメリットもたくさん出てきそうだ。そこで今回の特集では,そうした方法を探ってみた.これは,いわゆるLAN(ローカル・エリア・ネットワーク)の世界と言ってもいいだろう.しかし,従来のLANというと,ある程度大規模な構内ネットワークというイメージが強かった。今回のテーマは,もう少し小規模な,数台のパソコンが効率よく繋がっているものである.そのニュアンスを大事にしたくて,あえてLANという言葉は使わないでおいた.
 パソコンが普及するためのキーワードとしてコミュニケーションがあることは,以前から指摘されている.しかし,相手のいないコミュニケーションは成立しない.小さなオフィスのネットワークが注目されるのは,それだけ活用されているパソコンが増加したことの証と言えるのだろう.
(土田米一)

この記事の20年後位から職場にLANが整備され、直接話をしなくてもメールで済むようになった。このころLANはまだ未来の環境であり、インターネットはなくパソコン通信を使っていた。結構苦労したものだ。

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